世界的にキューバ音楽が知られるようになったのは1928年ごろ。
ソン、ボレロ、コンガ、ルンバがニューヨークで商業的に、よりカジュアルにアレンジされ、全てルンバと言うエキゾチックなひとつの商標のもと、南の国のパッションに満ちた音楽として商売された。キューバの街角で主流だったセステート(6人編成)やセプテート(7人編成)のソンバンドがプロポータの意向でやがてより大音量が出る劇場型音楽のオーケストラに取って代わり、ピアノがギターとトレスの代役を務め、管楽器が増やされた。
多くのキューバのミュージシャンがアメリカに出稼ぎに来るようになり、ジャズミュージシャンとの交流を深める中でフュージョンし、ビッグバンド編成で演奏されるマンボが一世風靡。ぎこちなく踊るニューヨークやパリのような大都市のインテリ層に持てはやされたダンス音楽は、ハリウッドムービーというフィルタを通して世界中に広がり、日本にもやって来た。当時のナイトクラブでは大ブームを引き起こし、マンボズボンまでが大流行するが、ロック時代の幕開けと時を同じくしていつしかキューバ音楽の黄金時代が影を潜めた。
ではキューバ音楽の背景には何が起こっていたのか?
キューバ革命の社会主義化によりアメリカは経済封鎖を敷いた。キューバ音楽も世界的に抹殺され、音楽業界からキューバ音楽の鼓動が聞けなくなった。
60年代末のニューヨークのラテン社会ではキューバ音楽を基礎に他のカリブ海のリズムやロック、ジャズの要素を取り入れ演奏されていた音楽があった。70年代に入りサルサと呼ばれるようになり、都会的なラテン音楽として、行き場のないエネルギ-に満ちていた。アメリカや他のラテンアメリカ諸国ではキューバ音楽が聞かれなくなっていたが、90マイルしか離れていないマイアミから流れてくるラジオの短波からはサルサが流れ、キューバ人は驚嘆した。自分たちが50年代まで演奏していたソン、チャチャチャ、ルンバが手を加えられ、名前を変えラテン社会のアイデンティティを示すものとして演奏されていた。
ソンの名曲にSON DE LA LOMA 「山の人達」「山のソン」と二つの意味を持つ。
「 あの歌い手たちは何処からやって来たの?
お洒落で素敵な詩からすぐに彼等だとわかってしまう
そしてあの唄を覚えたいの
ハバナから来ているのだろうか、
それとも自由な土地サンチアゴ、
いや山の人達さ、そして平野に下りて唄うのさ 」
この歌詞が物語るようにソンはキューバ第2の都市サンチアゴ・デ・クーバの山々を越えてやって来た人達が歌っていた音楽からソンが生まれた。山奥の村々の小作農たちが村祭りなどで踊っていたネンゴンやキリバー、グアンタナモのチャングイのリズムがサンチアゴに伝わり、音楽的に洗練されソンが誕生。ギター、マラカス、ボンゴがリズムを奏で、シンコペーションするベースが踊り手たちのアクセントをトレスギターがメロディーを奏でる。歌はどんな題材にもなり、メロディアスはコプラと呼ばれる部分とコーラスと即興で歌う掛け合いのリピート部分に分かれている。
原住民インディオたちの文化的遺産を受け継ぐことなくキューバ音楽は産声を上げたスペイン人の功績はムラート(スペイン人とアフリカ人の混血)だとキューバ人は言う。
1492年にキューバ島に辿り着いたコロンブスは最後まで黄金の国ジパングに到着したものだと思っていた。死後新大陸であることが証明されてから始まったスペイン統治時代では金が採れない。
キューバに興味を持たないスペイン人たちは中南米のより発展した文明の黄金伝説に迷走、金銀財宝を求めて略奪に奔走した。時が経つにつれアメリカ大陸とヨーロッパの間の交易が発展、それに併せて地理的な有益性を持つハバナなどのキューバの港に財宝が集められ、水と食料とともに船積みされスペインの港へ向かうようになった。ハバナの港には必然的に船乗り相手に港の酒場には売春婦と音楽家が集まるようになり、歓楽街が出来上がっていった。最初は奴隷として連れて来られた都会の黒人たちの中には自由になる者も現れるようになった。職業が制限されていた黒人たちは荷役労働者になるか、酒場で音楽家のなるしかなかった。
当時ヨーロッパで流行っていたダンス音楽が主に演奏されていたが、白人たちの音楽を真似た黒人たちの音楽は同じに鳴るはずがない。感性の違いによりリズミカルに演奏する黒人たちのオーケストラには人々が群がるようになった。 当初のスペイン統治時代にはスペイン人達は音楽を餌に黒人たちを改宗させようと教会の聖歌隊やオルガン奏者には黒人たちを多く起用した。彼等にとって唯一の息抜きだったのかも知れない。
17世紀になると砂糖キビ産業の発展に伴いスペイン人達は次々と大農園を作るようになり、労働力の必要性から大量の黒人たちをアフリカのナイジェリアやコンゴから連れて来られた。村ごと襲われた黒人たちは村の文化をそのまま持込み、奴隷開放が起こるまでの間、他界との接点がないまま、長年に渡り自分たちの音楽を守り続けた。
19世紀になるとヨーロッパのダンス音楽を基本にキューバでもダンス音楽作られるようなった。それが逆にヨーロッパに渡り、旧大陸の人々を虜に。その例としてハバナネラがある。セビリアに渡ったハバナネラは港から港へ渡り、その内アルゼンチンに持込まれ、ブエノスアイレスの港の黒人音楽カンドンブレと混ざり、アルゼンチンタンゴの元となるミロンガが出来た。